移住者インタビュー

Interview

Uターン30代地域おこし協力隊阿南市

本当に豊かな暮らしが、この土地にはあります。

久米可奈子さん

出身地:徳島県

移住年:2017年

現住所:阿南市

職業:地域おこし協力隊

取材年月:2017年5月

四国霊場22番札所「平等寺」の門前に位置する馬場地区を中心とする阿南市の新野町。ここで生まれ育った久米可奈子さんは、2017年の4月に地域おこし協力隊としてUターンしてきたといいます。一度、地元を離れたからこそわかる故郷の魅力について聞いてみました。

祖母のスナップエンドウで気づいた故郷の魅力。

--久米さんは、ここ阿南市・新野町のご出身だとお伺いしました。

久米さん:そうなんです。でも、2017年の4月に戻ってくるまでは、ずっと東京で暮らしていたんですよ。きっかけは大学への進学でした。もともと母が東京の出身なので、関西圏よりも心理的な距離感が近かったこともあり、福祉や心理学を勉強するために上京したんです。卒業後は食育に興味があったため、飲食関係の仕事に就き、ずっと忙しい日々を過ごしていました。

--いつかは徳島へ戻ろうと考えていたんですか。

久米さん:もちろん、実家がありますから「いつかは戻らなければいけない」という気持ちはありました。でも、それが今になるとは想像もしていませんでしたね(笑)。東京での生活は楽しかったですし、多忙ということを除けば、特に不満もなかったんです。ただ、朝早くから地下鉄に乗って職場である喫茶店へ行き、くたくたになって終電で帰る毎日が続くなか、ぼんやりと「これでいいのかな?」という気持ちが、心の中に浮かんでくるようになっていました。

--移住を意識しはじめた具体的なきっかけがあれば教えてください。

久米さん:ある年のゴールデンウィークのことでした。久しぶりに新野町の実家へ戻ったんですよ。そのときにスナップエンドウの塩茹でを食べたんですが、これが信じられないくらい美味しかったんです(笑)。うちのおばあちゃんが自分の畑でつくったものですから、小さな頃から私もこういう野菜を食べて育ってきたんですよね。そこで初めて「何て豊かな土地なんだろう!」と気づいたんです。東京のスーパーマーケットには、色とりどりで形の良い野菜がいっぱい並んでいますが、これほど力強い美味しさのものには出会えなかった。もしかすると、自分が求めている生き方は都会にはないのかもしれない…。そう考えるようになったのは、間違いなく、このときに食べたスナップエンドウの塩茹でのおかげだと思います(笑)。

--人生観が変わるほどの味わいだったんですね。それからすぐに移住されたんですか。

久米さん:いや、仕事もありましたし、すぐに「移住する!」という行動には踏みきれませんでした。それに徳島へ戻るという考えも、当時は自分の中になかったように思います。最初は東京からそれほど離れるつもりはなかったんです。関東地方のどこかで自然の多い場所をイメージしていましたし、その後も新潟や奈良、三重などを候補に挙げていました。

いろいろな土地を見て、自分に合う場所を探す。

--新野町へのUターン移住を決めるまでに、どのくらいかかったのでしょう。

久米さん:約3年くらいですね。その間はインターネットで情報を調べて、気になったところ土地には足を運んでみるようにしていました。特に良く見ていたのは移住者の方の体験談です。この『住んでみんで徳島で!』もチェックしていました(笑)。自分が飲食関係の仕事をしていたこともあり、行く先々のお店は気になりましたね。経営している方やスタッフの方もそうですが、そこに訪れる方まで含めて、場の雰囲気を体感するのは大切だと思います。実際に自分が近くに住むとなれば、お店はコミュニティーに欠かせない存在になっていきますから。

--実際に移住候補の土地に行ってみるのは、やはり重要なことだと思いますか。

久米さん:絶対に行ってみた方がいいと思います。インターネットの情報だけではわからないことって、いっぱいあるんですよ。たとえば、一言で「寒いところ」と言っても、新潟と山形では寒さの質が違いましたし、住んでいる人の気質もびっくりするほど違いました。どこに移住するにせよ、一人では暮らしていけませんよね。イメージだけで決めるのではなく、そこで暮らしている人たちや文化を知り、自分と合うかどうかは慎重に見極めなければいけません。

--いろいろな土地を見比べた結果として、新野町に決めた理由を教えてください。

久米さん:移住先を考えていたとき、あらためて故郷に目を向けてみると、新野町の人たちが、自分たちで地元をすごく盛り上げようとしていたんです。たとえば「新野支援隊」もその一つ。東日本大震災の被災者の方々を受け入れたり、お祭りやイベントなどを企画していたり…。私は新野町も少子高齢化で過疎が進み、いつかはなくなるんじゃないかと思っていたんです。でも、都会に出ていた私の同級生たちも続々とUターンして、家業を継いだり、故郷での子育てに頑張っています。それだけ自分たちの町を大切にする気持ちが強い土地なんだと感じました。そこで、私も生まれ育った新野町にUターン移住しようと決心したんです。

新野町を、もっと住みやすいまちにしたい。

--地域おこし協力隊としては、どのような活動をされているのでしょう。

久米さん:私と蔵本准平さんの2人が新野町の担当なのですが、今は「あらたの観光案内所」を拠点として、さまざまな活動をスタートさせています。新野町は四国霊場22番札所「平等寺」がありますし、昔からお遍路さんが多いんですよ。最近では外国から訪れる方も増えてきたので、困っている方を助ける役割も担っていければと考えています。2017年4月からは、平時がお遍路さんや一般の旅行者向けの民泊、災害時は避難所となる「シームレス民泊」も平等寺で始まっており、これからはさらに注目を集めていくのではないでしょうか。また、新野町はタケノコが名物なんですが、竹林を舞台とした「新野竹林コンサート」のサポート、新野町の情報を発信するブログ『たけのこニョッキ!!』なども運営しています。

--積極的に地域と関わるようになって、気づいたことはありますか。

久米さん:とにかくイベントが多いのはびっくりしましたね(笑)。それから、想像以上に子供が多いと感じました。「あらたの観光案内所」は通学路になっているせいか、よく子供たちが前を通るんですが、楽しそうな笑い声を聞くと嬉しくなります。それから、同級生との関わり方も変わりましたね。皆、それぞれ立場は違いますが「地元を盛り上げたい!」という気持ちは一緒。昔よりも仲良くなりました(笑)。そうそう、食生活も変わりましたね。一番変わったのはレシピです。採れたての美味しい野菜がいっぱい手に入るので、素材の味を生かした味つけをするようになり、明らかに調味料を使う量が減ったんですよ(笑)。

--これからどのようなことをやっていきたいと考えていますか。

久米さん:そうですね。地元の人の中には「ここは何もない」と言う方もいらっしゃるんですが、それはあまりにも身近すぎて、新野町の良さが見えていないだけだと思うんです。昔からお遍路さんが多い土地柄のせいか、よそから来る人に対して、とてもオープンでフレンドリーな町なんですよ。移住を考えている方にも有り難い点ではないでしょうか。保育所や幼稚園、小学校もありますし、私が子供の頃から遊び場にしていた轟神社には、樹齢が約750年以上という立派なクスノキの巨木があったり、住んでみなければわからない魅力がいっぱいあります。今後はこうした良さを外の人に伝えていくと同時に、地元の人たちにも気づいてもらうような活動をしていきたいですね。まだまだ新野町は過渡期にあると私は考えているんですよ。次の世代のためにも、どんどん住みやすい町に変わっていくお手伝いをしていきたいですね。