移住者インタビュー

Interview

支援団体専門・その他美波町

“一人ひとりの人生”をまずは大切にしたい。 目の前にいる人に幸せになってほしいから、この仕事をしているんです。

小林陽子さん

移住コーディネーター
一般社団法人アンド・モア 代表理事

取材年月日 2016年3月

大阪での優雅なマンション暮らしから一転、家業を継ぐためにUターンした小林さん。そこで待っていたのは人口減により徐々に衰退していく故郷の姿でした。「このままではあかん!」と危機感を感じ、ボランティアで移住支援を開始。現在に至るまで定住率は100%。現在は正式に美波町から移住コーディネーターの委託を受け、都市部で開催される移住フェアではパワフルなキャラクターから名物コーディネーターとして一目置かれています。

移住支援を始めた理由は、私がUターンで経験した苦労を、これから来る人に味わってほしくないからです。

--小林さんが移住者を支援するようになったきっかけをお聞かせください。

小林さん:私は日和佐(現在の美波町)で生まれ育ったのですが、進学のため関西へ。卒業後は大阪で夫と共に暮らしていました。でも、33歳の時に実家の新聞販売店を継ぐために故郷に帰ってきてカルチャー・ショックを受けたんです。都会的な生活に慣れてしまっていたから、環境の違いに驚きました。移住者を支援する仕事を始めた理由の一つは、その時自分がUターン移住者として経験した苦労を、これから来る移住者の人に味わってほしくないからです。

--Uターンで帰ってきた時の苦労というのはどのようなものだったのですか。

小林さん:自分の文化水準を保てる物や気の合う友人がほとんどいなかったことですね。美術館も、コンサートも行けない。スーパーへ行ってみても、調味料は胡椒ぐらいしか置いていない。次第に自分が「社会」から取り残されていくような埋没感に陥りました。

--何もない環境は良いところもありますが、都会の生活に慣れている人には辛いですよね。

小林さん:当時の私にはそれがとっても辛かったです。でも、それから少し経って転機が訪れました。真珠が有名なジュエリーブランド「TASAKI」の研究所が日和佐に設立されるということで、その研究員の方々の家を探して欲しいと頼まれ、このことをきっかけに研究員の方々と日常的な交流が始まったんです。とても仲良くさせていただいて、毎週のようにご自宅で紅茶をいただいたりしていました。

--それが初めての移住支援でしょうか。

小林さん:ちゃんとした移住支援とは言えませんが、ある意味そうかもしれません。移住のお手伝いをすることによって私も気の合う人と出会えるし、移住者の方との交流がとても楽しかったんです。実家が新聞販売店をしていたので空き家には詳しかったこともあり、その後も一人で活動するようになりました。

--新聞販売店で培った情報網や地域に精通されているという立場は、移住を支援する人として適任ですね。

小林さん:でもね、町の人口減少が原因で新聞販売店をたたまなくてはいけなくなったんです。

--美波町はここ30年(1980-2010年)で約4000人も人口が減少しているようですね。

小林さん:新聞販売店というのは折り込みチラシが収入源の一つなのですが、人口減少により小売業の経営が悪化して収入が得られなくなってしまった。こうした町の変貌ぶりを実感して、私は本当に危機感を持ったんです。このままだとこの町はなくなってしまう、「どないかせなあかん!」と。

オペラプロデュースで培った直感を活かして

--63歳の時に美波町役場から移住支援を行う「ウェルかめコーディネーター」を委託されたということですが…。

小林さん:新聞販売店を辞めたこともあり、自宅の一角に移住交流サロンを設けました。ボランティアでやっていた時期もありましたが、今は役場と連携して、移住希望者とこの町を繋ぐサポートをしています。移住フェアへ参加し、移住相談にのることから始まり、町の案内や住む場所を探したり、サポートは多岐にわたります。

--移住後もサポートをされていますよね。

小林さん:もちろんです。移住者というのは、初めての土地で生活を始めるわけですから非常に大変なんです。地理感覚も掴めていないし、田舎には田舎のしきたりやマナーみたいなものがある。それらのことを一つ一つお伝えしていきます。

--例えばどのような方がいらっしゃいましたか?

小林さん:移住して飲食店を始めた方がいらっしゃいました。そのご夫婦には、店舗となる空き家を紹介するところから始まり、料理の材料を仕入れるため、一緒に漁協に頭を下げに行ったりもしました。お店がオープンしてからは、経営がうまくいくか心配だったので、毎日のように食べに行って、何キロも太ってしまいました(笑)

--もはや「移住支援」の枠を超えてますね。

小林さん:これは私の性格で、気になると徹底的にやってしまうんです。

--移住支援を行う中で難しいところはどのようなことなのでしょうか。

小林さん:難しいのは、移住者と町との相性を判断するところでしょうね。人にも性格があるように町にも性格がありますから、この町に適している人と適していない人がいる。それに、この町へ来て何か問題が起こったら私の責任にもなりますから、慎重にならざるを得ません。

--町と移住者とのマッチングはどのように見極めているんでしょうか。

小林さん:誤解を招く言い方かもしれませんが、一言で言えば、私が「好き」か「嫌い」か、なんですよ。長年海外オペラのプロデュースなどを通して培った直感なんです。その勘を頼りに、地元と上手く付き合っていけるかどうか、移住の際に発生する様々な問題を解決していける人かどうかを見極めます。とはいえ、根拠がまったくないわけじゃないんですよ。身なりや話し方など細かく観察していれば、見ず知らずの土地でも一人で上手くやっていけるかどうかは、おのずと答えが出ているように思います。

--なるほど。オペラプロデューサーとはどのようなお仕事だったのですか。

小林さん:43歳から約20年間、ウィーンの森 バーデン市劇場の日本公演の総合プロデュースをしていました。全国のホールを回って売り込みに行き、公演が決まるとキャストや大道具、小道具などのスタッフも含め100人の劇団員のワーキングビザやツアーの手配、オペラを知ってもらうためのセミナーやPRのためポスターやパンフレットの作成、チケット販売や資金繰り…などの一切合切を一人で面倒みます。1回の来日で日本各地を回り、約20公演行うんですが、その間、予想もしないようなトラブルが次々起こる。トラブルに直面したとき、速やかに問題を解決するには、相手が望むことをしてあげるのが一番。といっても譲れない場合もあるので、そんなときの交渉術や事前に危険を察知する力も養われました。

--そうした経験が今、いきているわけですね。

小林さん:沖縄以外、全国各地で公演を行ったので、出身地を聞いたらだいたいその町が分かるというもの強味ですね。「近くに○○があるでしょ」っていうと「知ってるんですか⁉」って初対面でもグッと距離が縮まる。でも、これだけの経験があっても失敗することはあります。目の前の移住者と日々向き合う中で、失敗と成功を繰り返しながら私自身も成長している最中です。

私は「まちづくり」と「移住」はある意味別物だと思っています。

--今、全国各地でまちづくりの手段として「移住」を推進し、都市部で行われている移住フェアでは人を奪い合っているような印象を受けますが、そのことについてどのようにお考えですか。

小林さん:良いことを聞いてくれました。私は「まちづくり」と「移住」はある意味別物だと思っています。今あちこちで様々なNPOや自治体が移住促進事業を展開していますが、この風潮はどうもしっくりこない。それは移住者が町の問題解決の手段として考えられているからだと思うんです。農業の後継者不足も深刻ですが、だからといって誰彼構わず農業を進めるのではなく、 “一人ひとりの人生”を大切にしたい。目の前にいる「あなた」に幸せになってほしいから、この仕事をしているんです。

--目の前の「あなた」に幸せになってほしい、ですか。

小林さん:そう。だって移住って大変なことだと思いません? 移住が上手くいくか否かでその人の人生も決まりかねない。自分が移住者として苦労した経験もありますし、人の人生のお世話を焼きたいという性格もあって、そう思ってしまうんだと思います。「人口増」や「まちづくり」はその結果としてついてくるもの。もちろん私だってこの町が大好きですし、町の未来を危惧していますが、まずは目の前の「あなた」に全力を尽くすことが、私のやり方であり、責任なんだと思っています。