移住者インタビュー

Interview

Iターン40代専門・その他海陽町

サーフィンで得たことを農業や食を通して伝えていくことに魅力を感じています。

田中宗豊さん

出身地:大阪府

移住年:1992年

現住所:海陽町

職業:サーファー、シェイパー、農業

取材年月:2016年2月

24年前、プロサーファーを目指して単身海陽町へやってきた17歳の少年は、結婚し、自然と地域の一員に。地域の人々と過ごす中で農業にロマンを感じ、エクストリームの世界で感じたものを農業や食を通して伝えるため、農業プロジェクト『ルロクラシック』を始めました。

プロサーファーを目指し、17歳の時に原付で宍喰へ向かいました

--海陽町に来られて何年になりますか?

田中さん:24年ですね。プロサーファーになりたくて。本当は沖縄へ行こうと思っていたんですが、宍喰に住んでいるサーフィンの師匠に、「住むところと仕事を用意したから来い」と言われ、言われるがまま、「はい」という感じで…。

--ご両親は反対されなかったんですか?

田中さん:猛反対ですよ(笑)。プロになって、8年くらいかけてようやく雑誌に出させてもらえるようになって少しだけ認めてもらえるようになり、今では孫の運動会にわざわざ来てもらえるようになりましたが(笑)。親には感謝してます。当時まだ17歳だったんで、“若気の至り”とも言えないくらい子供でしたから、100%勢いまかせ。原付で大阪から和歌山へ行って、和歌山からフェリーで小松島に渡って。こっちに来てからは波に乗って、アルバイトして…の繰り返し。とにかく波に乗れさえすればいいという生活でした。

--サーフィンがしたくて移住する人が多いのは、海陽町の特徴ですね。

田中さん:はい、このあたりはサーフィンのメッカですからね。海陽町・徳島・四国に限らず、日本はサーフィンに適した素晴らしい海岸線を誇っています。

地域とのパイプ役になっているのは、嫁さん

--サーフィンの師匠がいらっしゃったということですが、地域の人とつないでくれたのもその方だったんでしょうか?

田中さん:そうですね。そして、より地域と関わるようになったのは、結婚してからです。結婚して日比原地区に引っ越して、それからです。日比原は地域の人が協力して祭壇を組んでお葬式をするような、昔ながらの風習が残る地区。10代の頃から地域の方にはお世話になっていたんですが、今のような「地域の一員」という自覚はなかったですね。

--地域の一員へと、どんな風に変わっていったんでしょうか?

田中さん:「田中さん、来週の日曜、○○あるでぇ、頼むわな」「春祈祷のお金、集めに来たじょ~」とか、近所から当たり前に声がかかるようになって、自然とそうなった感じです。そのきっかけを作ってくれたのは嫁さん。社交的な性格ですし、僕よりも「奥さんの方が声をかけやすい」と思われたんでしょうね(笑)。やはり、嫁さんが地域とのパイプ役になってくれているんだと感謝しています。

サーフィンで学んだことを農業にアウトプットする

--現在、『ルロクラシック』という農業プロジェクトもされていますが、農業をされるようになったのはなぜですか?

田中さん:僕、祭りが好きで、日比原地区にも井上神社祭(いのかみじんじゃさい)という素晴らしい祭りがあるんですが、その祭りに関わる中で、地元の農家さんの方たちとも親しくなりまして。中でも専業農家の方たちには憧れを感じていたんです。その人たちが「お前みたいなのが農業してくれたらな~」って言ってくれて。酒の席だったんですが、その言葉は胸に響きましたね。そういう人たちが懐かしそうに、誇らしく語るのは、今のように機械を使わず、どんな土地も人力だけで耕し、収穫していた時代の話。その話にロマンを感じ、自分もやってみたいと思うようになったことは、きっかけのひとつです。

--土地はどうされたんですか?

田中さん:耕作放棄地がたくさんあるんですが、そういう場所は機械が入らなかったり、水はけが悪かったり、採算ベースに乗せるのに不向きな、手のかかる場所なんです。そんな土地のひとつを「やってみんか?」と声がかかり、タイミング良く、いただいたハーブの苗を植えたらそれがうまいこと育って。昨年の8月2日の歴史的豪雨で畑が流され、全滅したかと思いましたが、見事に生き抜いてくれたんで、「これだ!」と思いました。

--サーフィンから農業へ、うまくつながっていったんですね。

田中さん:20年を短縮して話したらそう聞こえるかもしれませんが、人生の歯車は外れまくりですよ(笑)そのたびに、たくさんの方々に助けていただきながら歯車を入れなおしています(笑)。僕の軸はサーフィンから教えてもらったことが基本です。それを陸上でどう考え、表現していくか、エクストリームの世界で感じたものを農業や食を通して伝えていくことに魅力を感じています。ボード創りもそのひとつ。林業の衰退も問題になっているんですが、このあたりにはいい木がたくさんあるんですよ。サーフィンにこんな話があります。サーフィンの神様といわれるデューク・カハナモクさんという、水泳のオリンピック選手で、サーフィンを世界中に広めた偉大な先人がおられるのですが、そのお方が活躍していた1940年頃までは、自分達で削り出した木のボードを使い、木のサーフボードが主流だったようです。その後、化学の進化と共に変化していき、現在では化学製品が主流になっています。

--これからは木のボードにシフトしていこうと思われているんですか?

田中さん:化学製品も木も、両方します(笑)。いろいろな事をやって、技術を高めたいです。今創っている桐のボードは作業場の近くから切り出した木を使っていて、木のボードは車でいえばクラシックカーみたいなもの。重いし、癖も強い。だけど海に浮かべると驚くほど軽く、その癖があってこそ楽しめる波もあるんです。

--木のボードも作れて、サーフィンもできるというのは海陽町ならではの暮らしですね。

田中さん:この町には農業や林業、漁業に限らず、何百年、何千年の自然を中心とした考えや、経験を蓄積した昔ながらの知恵が暮らしの中に残っています。田舎で暮らすということは、そのコミュニティに身を置くということ。観光と違って、移住はみんなに「おいで、おいで」と簡単に言う訳にはいかないですけど、悩んでいるなら、いざ旅に出て、実際に動けばいいと思います。本気で自分が動いていれば、助けてくれる人も現れるし、自然と道は開けると思います。サーフィンでもなんでも自分の中に何かひとつ軸があれば、そこを起点に思わぬ方向へ導かれることもある。海陽町は温暖な気候ですが、物凄い台風も来ます。そういうことも踏まえると一次産業は特に天候によって左右され、すべてお天道様しだい。しかし、逆境に立っても少々のことは気にしない、たくましさと気楽さがある人が向いているような気がしますね(笑)。